不平等の中の平等、平等の中の不平等

水曜日は聖蹟東口。風は強いが爽やかな朝。いつものように元気一杯6時35分絵k当スタート。ここは道行人にも知り合いが多い場所だ。特にここは女子高生や若い娘さんに時折手を振られることがある。今朝もそうだ。素直に嬉しいものだが、反面どこか照れくさい。しかし、もっと困るのは誰の娘さんはわからないことだ。きっと知り合いや仲間のの娘さんであることは間違いないのだろうが、すっかり大人になって、すこしお化粧などしているとどこの誰だかわからないのだ。子供の成長は本当に早いものだ。子どもと言えば本格的な少子高齢社会に入って久しい。加えて人口減少時代にもなってきた。昨年1年間で約30万人も人口が減った。そして、65歳以上のお年寄りが全人口の約4分の1。4人に1人がお年寄りだ。年金の支給年齢も1歳(61歳から)引き上げられた。企業は定年になっても希望者には引き続き65歳まで働けるよう雇用が義務付けられるが、年金空白期間を十分に埋められるほどの収入が得られるかは疑問だ。いつか読んだ本に「不平等の中の平等・平等の中の不平等」といった言葉があった事を覚えている。画一的な平等社会は必ずしも発展はしない、むしろ一見不平等と思われる中に本当の公平性があるという趣旨の内容だったように思う。これを社会保障に当てはめれば、いろいろな年齢層やいろいろな収入の方々にも、それぞれの状況や環境にあった負担をそれぞれに進めてもらうことこそ、持続的な社会が実現できるのだと思う。今は、2,5人で一人のお年寄りを支えているが、あと15年もたてばこれが1,5人で一人のお年寄りを支えることになる。70歳から74歳までの医療費窓口負担を1割から2割に増やそうといった検討も避けては通れないのかもしれない・・・。今朝は2272回目。

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